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レバノンの旅 (2004年1月29日〜2月1日) 


【日程】 1日目 アンマン → ベイルート (飛行機)

2日目 ベイルート → サイダ(シドン) → スール(ティルス) → カナ → ベイルート (タクシー)

3日目 ベイルート → バールベック → ザハレ → ベイルート (タクシー)

4日目 ベイルート → アンマン (飛行機)   <3泊4日>


バールベック ジュピター神殿 6本の大列柱

 

1日目 : 2004年1月29日(木) アンマンからベイルートへ

 1月30日から2月4日までがハッジ(巡礼月)明けの犠牲祭で休みとなった。これは旅するチャンスということでレバノン行きを決定。

 アンマンからだと陸路、空路どっちもOKだけれど、今回はシリアのビザを取る時間がなかったので飛んでレバノンに入ることにした。ロイヤル・ヨルダン航空のエコノミー利用で往復140JD(ヨルダン・ディナール、約22,000円)。空港まではタクシーで10JD。バスだと1.5JDなのだけど、直前まで仕事に追われていたので、あわただしくタクシーで出発する。

 犠牲祭の始まるせいで、クイーン・アリア空港はいつになく混んでいる。

<機内にて>

 飛行機は定刻の20:15を(予想通り)40分遅れで出発。飛ぶと同時に機内食が出される。内容は、小さなチーズ・サンドイッチと小さなケーキ、パックのオレンジジュース、そして食べ終わるとすぐに回収される。そうこうしているうちに飛行機はもう下降に入る。本当にあっという間のフライト。宙に浮いていたのは45分ぐらいか。

 窓から見えるベイルートは本当に華やかに見える。隣に座っていたレバノン人は「香港みたいだろう」と言う。それは大げさにしても、ビルが立ち並ぶ夜景はアンマンにはないものだ。

 窓から見ていると、街に突っ込むような感じで飛行機が着陸。飛行機が止まると同時にみんな立ち上がって荷物を出す。隣のレバノン人はカナダで学び、クウェートで働いているという。しかし、もらった名刺を見ると住所はクアラルンプール。世界中を飛び回るレバノン商人で、犠牲祭の休暇を過ごすための戻ってきたとのこと。

 飛行機のドアが開かないうち我先にと外に出ようとする乗客を見ながら、彼が自虐気味に言う。

 「なぁ。ばかげてるだろう。どうせみんな荷物を引き取るのに並ばなきゃいけないのにさ。焦って外に出てどうなるってんだろうね。残念だけど、これがアラブだ。もっとも、俺もその一人であることを否定しないけどね。」

<空港からホテルへ>

 イミグレーションの手前でビザを取得。近くの銀行のカウンターで17ドルの印紙を買い、「VISA」と書かれたカウンターに並ぶだけ。とても簡単。

 空港内は新しくて、こぎれい。

 税関を出るとホテルにアレンジを頼んでおいたタクシーに乗る。飛行機の中のレバノン人は町まで25ドルが相場と言っていたけれど、このタクシーは15ドル。まあ、相場よりは安いのかもしれないけど、それにしたって高い!

 ホテルまでの道中、よく整備された道路を走る。暗いので良く見えないが、ネオンや建物の雰囲気はなんだか、洗練されているというか、ヨーロッパ化されている。

 20分ほどで「メイフラワー・ホテル」に到着。事前にインターネットで予約して、ツインが65ドル。「うーん。これで65か。。。」と言いたくなる部屋ではある。レバノンは高いとは聞いていたけれど。地球の歩き方を見ても、中級はこのくらいとのことだし、そもそも、インターネット経由で予約できた宿で一番安いのがここだった。

 フロントで明日から2日間のタクシーの交渉。バックパッカーの頃ならば、「タクシー利用なんてとんでもない!」と思うところだけれど、うれし悲しくも今はサラリーマン。時間を優先しなくてはいけないのです。

 その日の夜には連れも無事到着。


2日目 : 2004年1月30日(金) サイダ(シドン)とスール(ティルス)へ

 翌朝、朝9:00に出発。今日は南に向かうことにする。ドライバー付きのタクシーで一日90ドル。

 南に向かう道路は広く、舗装もきれい。海沿いの道で、草木の雰囲気もなんだか南国っぽく、地中海性気候を強く感じさせる。

<サイダ、かつてのシドン>

 サイダに入る手前で「エシュモン神殿」に寄る。これは紀元前6世紀のペルシャの遺跡らしいが、中には保存状態の良いモザイクもあり、ギリシアの影響がうかがわれる。この日は冬なのに暖かく、緑の中に小さな黄色い花がたくさん咲いていた。

 サイダでは「海の城砦」を見る。13世紀に十字軍によって建てられたという城砦は、外から見るとなかなか風情があるのだが、3ドル払って中に入るとゴミが散らかっていてがっかりする。思わず、掃除ぐらいしろよ!、と言いたくなる。

 紀元前12〜10世紀にかけてはフェニキア人が活躍した町だったということだけど、残念ながら今はほとんどが十字軍とイスラムの遺跡でそれ以前の面影はない。

 旧市街の中では小さな教会を見た。聖パウロがローマに行く途中、宿泊したところを教会にしたとのこと。

 そのほか、石鹸の工場などもあったらしいが、金曜でお休みだった。。。。

<ヒズボッラーの戦士たち>

 サイダからさらに南に下る。右手の海岸沿いにはずっとバナナの畑が広がっている。

 途中、なんだか騒がしい。武装したレバノン国軍の兵隊がやたらと配置されている。

 道沿いに人がたくさん出て、レバノンの国旗を振ったり、黄色いヒズボッラーの旗を振ったりしている。

 さらに南のパレスチナ難民キャンプの近くになると、パレスチナの国旗と緑のハマスの旗もそれに加わる。

 運転手のハゼムさんに聞いてみると、イスラエルとヒズボッラの3年越しの交渉が実って、捕虜の交換を行なうことになり、その捕虜が戻ってくるのを待っている人たちだという。

 イスラエルからは59人の捕虜が返還、といっても、正確にはその遺体が戻ってくることになったらしい。そのほかにも、23人のヒズボッラーのメンバーも戻ってくる。さらにパレスチナのヨルダン川西岸では400人のパレスチナ人と、23人のその他のアラブ人も解放されたとのこと。イスラエルには3人のイスラエル人捕虜の遺体が返還された。

 ちょうどハゼムさんも南部の出身だそうで、この村では3人、次の村では2人、といったように亡くなった人の数を教えてくれる。子供たちまで街頭で旗を振り、ボーイスカウトの一行が楽器を演奏する。まさに、彼らなりに英雄の出迎えの準備をしていた。

 ハゼムさん曰く、「ヒズボッラーはよくやってくれた。レバノンからイスラエルを追い出した。みんなヒズボッラーを支持している」とのこと。確かに道すがら、黄色い旗がやたらと目につく。また、シーア派系のヒズボッラーらしく、イランの指導者のポスターもところどころにある。

<スール、その昔のティルス>

 こちらもフェニキア人の町で、紀元前11世紀に栄えたという。しかし、今ある遺跡はギリシア・ローマ時代のもの。

 遺跡に入ると大きな凱旋門が目に入る。そこにいたるまでの間にも、何かの建物や石棺がごろごろしている。文字通り、本当に「ごろごろ」と放置してある!彫刻の凝ったものはさすがに放置されず、ベイルートの博物館に所蔵されているとのこと。

 途中にある大きな競技場は緑に覆われていて、なかなか長閑な雰囲気。しかし、隣のモスクからはちょうど金曜の午後の説教が、ずいぶんと興奮したトーンで流れている。遠くからはヒズボッラー戦士の遺体を運ぶ車列が近づいているらしく、人々の大きな声と、銃の空砲と思われる音も聞こえる。

 遺跡の先は海になる。アレキサンダー大王の時代は島だったと聞くが、今は完全に陸続き。島を陸にしてしまおう、なんて思いつくのは簡単だけど、それを実行してしまうのはすごいと感心する。

<カナの婚礼?>

 スールの後、ハゼムさんがどうしても連れて行きたいところがある、ということで車で山を登ること約30分、カナというところに到着する。

 ここはヨハネの福音書の中にある「カナの婚礼」の場所だった、というのは定かではない。というのも、イスラエルのガリラヤにもカナという場所があり、どうやらカナの婚礼との関係ではそっちが由緒正しいようである。

 ここには、イエスに付き添った弟子たちが残したと言われる彫刻が岩壁に残されている。キリスト教最初期の遺跡だという。最初に発見されたのは16年前で、ここを開拓しようとした農民が偶然に発見した。

 とにかく、レバノン政府としてはここを観光地化しようとしているらしく、出来てから3年という新しい建物が立っていたり、歩道があったりする。確かに岩肌には人の手によって刻まれた彫刻があり、それがイエスやその弟子、聖母マリアをあらわしているとのこと。
 確かに、確かに、何かはある。だけど、相当な想像力がないとそれを認識するのは難しい、といった程度のもの。

 それでも、その場の管理人兼ガイドらしい人物は一生懸命説明してくれた。

<カナの虐殺、その跡地>

 ハゼムさんが僕たちに見せたかったものは「もうひとつのカナ」だった。

 1996年4月18日、UNFIL(国連レバノン暫定隊)の本部に逃げ込んだレバノン人住民をイスラエル軍のミサイルが襲い、107名が虐殺された。

 1996年当時、レバノン南部を拠点にヒズボッラーはイスラエルへの攻撃を繰り返していて、この攻撃はその報復のためイスラエル軍が展開していた「怒りの葡萄作戦」によるもの。

 UNFILの本部にはフィジー軍が駐留していて、付近の住民は、国連の中なら安全だと考え、ビルの中に逃げ込んだ。しかし、イスラエル軍はそれを承知の上で爆撃した。殺されたのは主に女性や子供だったという。

 今、その場所にはレバノン人、UNIFILによって建てられた慰霊碑もある。病院だった建物の入り口には、「新たなホロコースト」と書かれた看板もあり、今だに焼け焦げた柱、崩れかかった壁、飛び散ったガラスが生々しく残っている。博物館もあるが、この日は金曜で休みだった。

 毎年、4月18日には慰霊祭が行なわれる。僕らがその場を立ち去ろうとするとき、一人の女性が慰霊碑の近くに座り込んでいた。ハゼムさんによると、おそらく攻撃で身内を失った女性だろう、とのこと。

 虐殺からまだ8年。人の心の傷は癒えていないのかもしれない。

<内戦の話>

 午後4時半頃、ベイルートに到着し、ダウンタウンで降ろしてもらう。あまりにも周りがきれいなので驚く。

 アンマンで「ダウンタウン」というと、古く、ごみごみした町を想像させるが、ベイルートは全く違う。

 きれいに舗装された道、薄黄色の石材がふんだんに使われ統一感のあるデザイン、ごみひとつ落ちていない環境に感動する。道行く人たちの服装も欧米的で、あまりアラブという感じがしない。

 道にはテーブルや椅子が並べられ、カフェになっている。しかし、一歩裏手に回ると未だ内戦の傷跡をうかがわせる弾痕や焼き討ちの痕跡がある。このギャップがなんとも不思議な雰囲気をかもし出している。

 その後、タクシーでベイルートで最大の見所(?)である「鳩の岩」にいく。見てみて、まあ、予想通りというか、こんなものかというか、がっかりする。高さ22メートルもある岩だそうだが、ふーん、といってそれでおしまい。

 夜、ベイルートで30年以上続いている日本料理の店に寄る。寿司のセットを頼んだが、これがまた旨い。

 しかし、寿司の味もさることながら、内戦中も店を閉めなかったというオーナーの話はとても興味深いものだった。

 内戦中、ちょうど店のある位置は東ベイルートのキリスト教地区から撃ってくる弾がぎりぎり届くあたりで、店の前に止めてあった車が攻撃によって爆破されたこともあったという。内戦中は万が一に備え、みんながガソリンを満タンに入れているので、いったん、弾に当たると、車は火の柱になって燃え上がったそうだ。

 そんな中でもレバノンの人たちは生活していて、ドンパチが終わると町に出て買い物をし、日常の生活を営んでいたということ。外出中に戦闘が始まると、みんな寄り添って地下室のある建物に隠れ、助け合いながら生きていた。

 オーナーによると、内戦中も西ベイルートのイスラム教徒地区は安全で、イスラム教地区を歩くキリスト教徒は襲われることはなかったと言う。一方で、キリスト教地区に入ったイスラム教徒は攻撃されたり、殺されたりしていたらしい。

 日本の太平洋戦争のように食べ物に不自由した戦争ではなかったが、それでも戦闘で人口の5%が死んだとも言われる。

 また、内戦の内容も、「敵の敵は味方」になるのが当たり前だったので、単にキリスト教VSイスラム教といった宗教や政治の問題ではなかったという、本当に理解するのが難しい、複雑な構図の中で行なわれた戦いだったようだ。

 オーナーによると、最近のベイルートはきれいになりすぎて面白みがなくなったと言う。かつてのダウンタウンは肉、野菜、魚、金、銀、その他もろもろのスーク(市場)があり、活気にあふれていた。このごろは、見た目は美しくなり、シリアやアフリカから来た出稼ぎ労働者がせっせと掃除してまわっているが、人々の生活は苦しくなるばかりだそうだ。

 新しくなったダウンタウンの洒落たカフェでお茶する人たちを見ると、到底、生活に困っているようには見えない。しかし、オーナー曰く、彼らが無理してでも、あんなところで高いお金を払ってお茶するのは「見栄のため」だと言う。確かにヨルダン人にも非常に人目を気にする見栄っ張りなところはある。人それぞれで一概に言えないのだろうけど、それでもアラブ人のメンタリティを垣間見るような気がする。

 弾痕だらけで廃墟と化した建物も、過去の内戦を忘れないように保存するべきだとオーナーは言う。キリスト教徒、イスラム教徒、ドゥルーズ教徒、民兵、シリア軍、イスラエル軍などなどが放った弾の跡は、今後の平和を考える上で重要な遺跡になるかもしれないし、むしろ、観光客もそういった「負の遺産」を見るとき、感慨を覚えるのではないだろうか。


3日目 : 2004年1月31日(土) バールベック!!!

 今日も朝9:00に出発する。今日の行き先は世界遺産のバールベック神殿

 本当は、北部のビブロスやトリポリ、ジェイタの洞窟なんかも見たかったけど、時間がないので今回はパス。

 また、レバノン杉も、この時期は雪が深くて見れないとのこと。本当に残念だけど。

<バールベック>

 ベイルートも出て30分もしないうちに、路肩に雪が見え始める。これがレバノン山脈で、これを越えるとベカー高原に入る。そのまた向こうに見えるのがアンチ・レバノン山脈で、この間にある高原が、レバノンの穀倉地帯になっている。

 内戦中は、このあたりでハシシ(大麻)も大量に生産されていたらしい。

 道中、ヒズボッラーの黄色い旗が目につく。ハゼムさんによると、この地域は昔、無法地帯で、ヒズボッラーが来てからまともになったという。

 さらにこの地域には今だにシリア軍が駐留しているとのこと。

 遺跡は突然、町の中に現れる。でかい!スールでも思ったけど、やはりローマ人の技術力とは凄かったんだろうなあと感動する。

 特に印象に残ったのはバッカス神殿の天井の彫刻。今は屋根の一部しか残っていないが、完成当時は天井一面に細工があったと想像できる。

 遺跡の中には博物館もあり、壷や彫刻、金細工などが展示されていた。

 遺跡の近くに小さな土産物屋があり、そこの主人と思われる人物はその店の前にある「世界最大の石」を守る運動をしているという。確かに大きい石ではあるが、なんとなく、天然石っぽくなく、また、世界最大というほどには大きくない。人のよさそうな人物なのであるが、果たして本当にあれが世界最大なのか、確信が持てなかった。

<ザハレ>

 ハゼムさんのおすすめで、途中、ワイン工場に寄る。中で少し試飲させてもらってから、酒蔵になっている地下の洞窟も見せてもらう。洞窟の全長は2キロにもなるそうで、内部はひんやりとしているが寒いほどではなく、温度は一定に保たれているとのこと。

 洞窟はローマ時代から使われているそうで、中にはワイン樽がたくさん並んでいる。一つの樽でワイン300本分、洞窟全体で一万本分のストックがあるという。製品は欧米や日本に輸出されているとのこと。

<再びベイルート、国立博物館>

 午後3時頃にベイルートに戻り、国立博物館を見る。

 一歩入って、きちんとネクタイを締めた職員がいることに感動する。そして、きちんとクロークやミュージアム・ショップがあるのを見て、さらに感動する。ヨルダンとは違うなあというのが実感。

 展示もなかなか工夫が凝らされている。施設も新しく、照明や展示方法も気が利いている。しかし、スペース上の問題からか、展示物は考古関係のみであり、民俗資料がないのはちょっと残念だった。自分としては、レバノンのモザイク国家ぶりをもっと知りたかったのだけど、それでもなかなか見ごたえのある博物館ではあった。

 博物館の奥の人目につかないスペースには日本の援助で入れられたビデオのブースがあったが、電源が入っていなくて使えなかった。また、入り口付近にある視聴覚室も日本の援助らしいが、人気はなかった。地球の歩き方によると、内戦中、いかにして収蔵品を守ったかというVTRが見られるそうなので、この機材がそうではないかと思ったのだけど。

 博物館の後、ベイルートの中を歩く。華やかな表通りの裏に、生々しい戦争の跡がある。これがベイルートの面白さのように感じた。


4日目 : 2004年2月1日(日) アンマンに戻る。

 フライトは朝の7:00だったので、5:00にタクシーに迎えに来てもらう。

 つつがなく出国手続きも終了。

 行きと同じく、あっという間にアンマンに到着。

 確かにベイルートに比べると、素朴というか、田舎というか、そんな感じのするところである。

 

写真館もご覧ください。その1その2その3


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