ウズベキスタンの旅 (2000年4月30日〜5月7日)
【日程】
1日目 名古屋 → サマルカンド (飛行機)
2日目 サマルカンド (徒歩・乗合バス)
3日目 サマルカンド → ブハラ (公共バス)
4日目 ブハラ (徒歩・タクシー)
5日目 ブハラ → ヒヴァ (タクシー)
6日目 ヒヴァ (徒歩)
7日目 ヒヴァ → タシケント (飛行機)
8日目 タシケント → 名古屋 (飛行機) <7泊8日>
1日目 : 2000年4月30日(日) 名古屋発サマルカンド
2月頃からインターネットで航空券情報を集め、往復航空券を14万3千円で購入。このゴールデン・ウィークにはじめて運行されるチャーター便で、「名古屋→サマルカンド」の直行便。
ヴィザは自分で取得。まず、サイラム・ツーリズムというタシケントの旅行代理店(地球の歩き方にも載っている)にメールで連絡し、指定したFAX番号にインビテーションレターを送ってもらう(経費はタシケントで支払い)。そしてそのレターを持って目黒にある在京ウズベキスタン大使館でヴィザを申請。約1週間で出来あがり。
以上は前置き。
さて、出発の日の名古屋空港。チャーター便は4つのグループのツアー客にほとんど占領されている。その他に、個人の旅行者が少しとウズベキスタンに里帰りする留学生が若干名。機内はほぼ満員。
14:30、離陸。窓の外を見ると、見送りのテラスのあたりからカメラを向けている人がたくさんいる。「何事か?」と思ったが、どうやら飛行機マニアの方々がウズベキスタン航空の機体を撮影にきたものと判明。そう言えば、機内にもウズベキスタンのテレビ局のスタッフと思われる人物がカメラを回している。
機内食は、紙の箱に入った和食の弁当。こんな機内食は初めてお目にかかった。
20:00、サマルカンドに到着。初のフライトということで、こちらでも歓迎され、民族衣装を着た人々からバラの花が贈られる。
空港からタクシーでザラフシャン・ホテルに向かう。幸い空室あり、25ドル。
かつてはスムで支払えたというが、このときはドルのみ。部屋に入るとすぐに闇両替屋がやってくる。とりあえず、1ドル=680スムで100ドル分換える。新聞紙にくるんだ大きな札束が二つ渡される。少々面食らったが、「二人分だし、まあなんとか使い切れるだろう。」と思ったのが誤りの元だった、ということがわかるのは後の話。
2日目 : 2000年5月1日(月) レギスタン広場の警官、ティムールの夢の跡。
サマルカンド2日目、なにはともあれ、レギスタン広場へ、と思ったけれども腹も減っている、ということで、近くの屋台でラグマン(ウズベキスタン麺)を食べる。麺にもコシがあり、羊の肉も柔らかく、スープもうまい。二人で500スム。
レギスタン広場では昨日の飛行機で一緒になったツアー客と出会う。基本的に、観光客はグループであろうと個人であろうと、行くところは大体同じようで、これからの旅の間、いたるところで同じグループに出会うことになる。
やはり、ウズベキスタン観光の名所だけあってモスクは美しい。広場を歩いていると、警官3人が近寄って声をかけてくる。「旧ソ連の警察はマフィアよりもタチが悪い」と誰かが言っていたのを思い出す。
が、何を言ってるのかよく聞いてみると、「写真を撮って送ってくれ」とのこと。彼らは写真が撮り終わると、また木陰に戻っておしゃべりしている。平和なもんだ。
午後は、バザール、、ウルグ・ベクの天文台、博物館などを見て回る。50スムで乗れる乗合バスがとても便利。かつて、ティムールの時代のサマルカンドがあったという一帯を歩いてみる。羊飼いが放牧しているほかはこれといったものはない荒涼としたところ。足元をよく見ると、土器の破片が落ちている。記念にひとつ拾って帰る。
3日目 : 2000年5月2日(火) ブハラ、夕暮れのアルク城。
今日はブハラに向かう。とりあえず、バスターミナルで時間を確認、と思うと、もうすぐ出るとのこと。
900スムで切符を買って乗りこむ。車内で地球の歩き方を見なおしてみたところ、サマルカンド最大の見所のひとつである「ティムールの墓」を見落としていたことに気づく。「あぁ〜!」と思うがもう遅し。「また来るさ」と負け惜しみを言っているとバスが出る。
約7時間でブハラ到着。結構かかったなあと思っていると、後日、この一本後のバスは12時間かかったことが判明。むしろラッキーだったことを知る。
ブハラの中心、ラビハウズの南側のツーリストインフォメーションを訪ねる。学生が運営するNGOとのことだが、みんな上手な英語を話し、とても親切。
宿を「サーシャ&ソン」に決める。25ドル、朝食付き。部屋はすごくきれいで、お湯も出る。ただし、予約が入っているので明日は「サーシャ&レーナ」に移ってくれとのこと。
ラビハウズのまわりにはカフェとレストランが並ぶ。シャシリク(羊の串焼き)とサラダ、ナン、プロウ(ウズベク風焼き飯)を食べる。二人で腹一杯になっても1,000スムぐらい。
夕刻、城を見に行く。本当はもう閉まる時間だったのだが、守衛さんの好意で入れてくれた。町の眺めがとてもよい。ウズベキスタンについてから、人に親切にされることが多い。なかなか居心地がいい。
4日目 : 2000年5月3日(水) 預言者ヨブの泉。
今日は忙しい。次の目的地ヒヴァに行く方法と、ヒヴァの隣町で空港のあるウルゲンチからタシケントに飛ぶ航空券を買わなくてはいけない。
ヒヴァに行く公共バスはないこともないが、非常に時間がかかってしかも不定期らしいので、タクシーのシェアを考える。インツーリスト・ホテルの受付で相談してみると、1人25ドルでどうかとのこと。結局、お世話になることに。
次は航空券。ツーリストインフォメーションによると、空港で買えるとのことだったので行ってみると、これが買えない。予約システムがつながっていないらしく、ウルゲンチにある空港に行けとのこと。しょうがないのでブハラで航空券を買うのをあきらめる。
午後からは観光。町のモスク、メドレセ、バザールを見る。バザールの近くには「ヨブの泉」なるものがある。ヨブとは、旧約聖書「ヨブ記」に出てくる人物で、悪魔が与えるさまざまな苦難にも自分の信仰を捨てず、最後は神の手によって幸せになったという人。中東から遠い中央アジアにも聖書の登場人物にちなむ場所があるのはおもしろい。
夕方、「サーシャ&レーナ」に移る。一階奥の部屋となったが、とにかく蚊が多い。おかげであまり眠れずに朝を迎える。後日、タシケントで会ったTさんも同じように蚊に悩まされたとのこと。これから旅行される皆さん、「サーシャ&レーナ」の1階奥の部屋は避けるべし。
5日目 : 2000年5月4日(木) 沙漠を走る。。。。
朝7時。迎えの車が来る。私たちのほかに日本人が一人。同じ飛行機で来た人だった。やはり個人旅行者は同じような行動をとるらしい。
沙漠を走ること6時間。途中、トルクメニスタン国境をかすめながらウルゲンチに到着。飛行場で降ろしてもらう。早速タシケント行き航空券を買おうとすると、また「ここではない」と言われてしまう。町中のウズベキスタン航空のオフィスで買うのが正解。ようやくたどり着いて航空券購入。一人50ドル。ほんとは明日の夕方の切符が欲しかったのだが満席。明後日の朝の便にする。これだけの苦労を考えると、多少高くても日本で買っておくべきだったとちょっと後悔する。
駅前のレストランでラグマンを食べていると隣のおばさんが声をかけてくる。紺地に花の模様の入った民族衣装を着て、布がいっぱいに入った大きな袋を持っている。トルクメニスタンから来たとのことで、これからバザールで商売らしい。
タクシーでヒヴァへ。宿もすぐに見つかる。アルカンチというホテルで25ドルで三食付き。辺りは砂と石で出来た町。内城のイチャン・カラが世界遺産というのも頷ける。ちょっと近くを散歩するが、疲れたの早めに寝る。
6日目 : 2000年5月5日(金) イスラム映画村。
ヒヴァの町を歩く。一番高い塔に登ろうとすると、日本人のツアー客が列をなしているので時間を改めることにする。
城壁の周りをぶらぶらしていると子供が寄ってくる。「ハロー、ハロー」とどこまでもついてくる。かといってこっちから近づくと逃げる。遊ばれているようだ。
時間を置いて再度塔に向かう。狭い階段を上って頂上に。見晴らしはすばらしい。
「ヒヴァはどこが見所?」と聞かれると、「町全体」というしかない。それほど町と遺跡が一体化している。
夕刻、ホテルで食事を取りながら、向かいに座ったスイス人夫妻は日本に行ったことがあるらしくいろいろ話しかけてくる。大江健三郎はすばらしい、とか。逆にこちらが話についていけない。
突然、民族芸能のショーが始まる。同じ宿に泊まっていたオランダ人グループのためのものらしいが、後ろの方から見学させてもらう。
明日はタシケントに向かう。名残惜しいのでイチャン・カラをもう1度歩く。ひんやりとした空気の中、月の明かりがなんとも言えず良い。
7日目 : 2000年5月6日(土) ウズベキスタンのキムチ、サーカス、ナヴォイ劇場。
朝、ウルゲンチの飛行場に向かう。日本人ツアー客も同じ便に乗る模様。飛行場はまだ新しくこぎれいな感じ。約50分間のフライトでタシケント着。
今日の深夜の飛行機で名古屋に帰る予定なので、どこかで荷物を預けようとするが、そんな場所は見当たらない。しょうがないので荷物を持ったまま町に出る。荷物が少なくて幸い。
まずはサイラム・ツーリズムでインビテーションレターの発給代金を払う。25ドル。そして近くの美術館をぶらつく。
昼はタシケント在住の知人であるNさんとTさんに韓国料理をご馳走になる。
現在、タシケントには約25万人ほどの朝鮮族がいるらしい(これは全人口の約1%)。スターリンの時代の強制移住によるものだとか。異郷の地でたくましく根をおろす。朝鮮族はたくましい。幸か、不幸か、その縁がきっかけとなり、いまでは韓国の資本が相当入ってきている模様。
昼食後はサーカスを見に行く。建物は非常に立派な石造り。
司会は、ロシア語を話しロシアの民族衣装を身につけている人と、ウズベク語を話しウズベキスタンの民族衣装を着ている人の二人が交互に行う。
Nさん曰く、「ボリジョイサーカスをふたまわりほどスケールダウンさせたもの」。
実際はそれでも褒め過ぎのようだがそれなりにおもしろい。しかし、天井から垂れ下がっている紐にぶら下がってくるくる回る芸をやっていた人が突然、失神。紐が首に絡まったらしい。あわてて下ろして介抱する周囲の人々。場内は騒然となり、子供を連れて外に出る母親もいる。しばらくの後、場内はおさまって無事サーカスは終わったが、なんとなく落ち着かない感じだった。
夕方、ナヴォイ劇場に行く。第二次世界大戦で捕虜になった日本人が作った劇場で、数年前に起こった大地震にもびくともしなかったとのこと。おかげで日本人の建築技術はこの国でも信頼されるようになったとか。
劇場から歩いて「ブロード・ウェイ」と呼ばれるサイールゴフ通りを歩く。カフェ、レストラン、お土産屋などが建ち並び、けっこう賑わっている。最後にシャシリクを腹いっぱい食べる。口の中が油まみれになるが、お茶を飲むとそれなりに落ち着く。
いよいよ飛行場へ。来るときに一緒だったツアー客もみんないる。チェックインを済ませ、残ったスムを使い切ろうとあれこれお土産を購入。
あんなこんなするうちに、飛行機は定刻0:50に離陸。
8日目 : 2000年5月7日(日) 名残を惜しむ人々。
目がさめるともう名古屋。日本時間で12:30。ゴールデンウィークも今日で終わり。
ツアーの人たちは名残惜しいのか、みんなで立ち話をしてなかなか到着ロビーから出て行かない。旅の終わりの記念なのか、到着便の電工掲示板の写真を取る人もいる。
さて、今回の旅はここでおしまい。 忙しかったが楽しい旅だった。
それにしても遺跡はすばらしかったので、非常にお徳感、満足感のある旅行となりました。