アジア−中東横断の旅(その1)

〜中国・モンゴル・チベット編〜


<旅の日程> ※下線のある国名(もしくは地域名)をクリックすると関連する旅行記にジャンプします。

1996年6月   【日本】 大阪 →
    【中国】 上海 → 蘇州 → 南京 → 北京 →
1996年7月   【モンゴル】 ウランバートル →
    【中国】 北京 → 瀋陽 → 撫順 → 北京 →
1996年8月     洛陽 → 西安 → 西寧 →
    (チベット) ゴルムド → ラサ → シガツェ → サキャ → ティンリー →
ジャンムー →
    【ネパール】 カトマンズ →
1996年9月   【インド】 デリー → アグラ → プシュカル → ジャイサルメール → 
ジョードプル → デリー → マナリー → ダラム・サラ → 
デリー → ダラム・サラ → アムリトサル →
1996年10月   【パキスタン】

ラホール → ラワル・ピンディー/イスラマバード → 
タキシラ → ペシャワール → サッカル → クエッタ →

    【イラン】 バム → シラーズ → ヤズド → イスファハン → テヘラン →
1996年11月    

マシュハド → バンダリ・アンザリ → タブリース →

    【トルコ】 ドゥバヤジット → イスタンブール → アンタクヤ →
    【シリア】 アレッポ → ラタキア → タルトゥース → ハマ/ホムス →
パルミラ → ダマスカス → デリゾール →ダマスカス →
    【ヨルダン】 アンマン → ぺトラ → カラク →
1996年12月    

アンマン →

    【イスラエル】 エルサレム → テル・アビブ → エン・ヤハブ → エルサレム →
    【パレスチナ】 ベツレヘム →
1997年1月    

エリコ →

    【イスラエル】 ティベリアス → テル・アビブ →
    【エジプト】 カイロ →セント・カタリーナ → ダハブ → アレクサンドリア →
1997年2月    

カイロ →

    【ギリシア】 アテネ →
    【タイ】 バンコク → カンチャナブリ → バンコク →
    【ミャンマー】 ヤンゴン → マンダレー → パガン → インレー湖 →
タウンジー → ピンダヤ → メティーラ → パゴー → 
1997年3月     ヤンゴン →
    【タイ】 バンコク →
    【香港】 香港 →
    【台湾】 台北 →
    【日本】 福岡

※ちなみに大阪〜上海間は船、上海〜カイロ間は陸路、カイロ〜福岡までは空路で移動。


<中国編 その1>

■1996年6月 新・鑑真号 【大阪→上海(船)】

 大阪の南港から船で上海に向かう。船の名は『新・鑑真号』。3泊4日、料金は学割で約1万7千円。これとは別に、船内でビサを取るのに1万円かかる。

 2等クラスは所謂、雑魚寝。自分のほか、やけに荷物の小さいY、対照的にやけに荷物の大きい郵便局員、旅慣れたふうのNとKペア、隊長と呼ばれる見るからにつわものそうな旅人、その他、アーチストの夫婦など、個性豊かな旅人たちがいた。

 船は揺れて、夜中にも「ドーン」と大波が船に当たる音が聞こえる。それを聞いても大部分の人が何事もなかったように眠る中、荷物の大きい郵便局員のみは「大丈夫かなあ」と落ち着かずにそわそわしている。

 自分自身、船酔いにやられて動けない。吐きこそしないものの、食事をしたり、風呂に入ったりする気力が出ない。

 そうこうするうちに上海近くに到着し、船が安定し始める。小さな窓から外に広がる大都市が見える。

 降りる間際、乗船記念のTシャツをもらう。背中に「新・鑑真号」と書かれたこのTシャツは、着るものをあまり持ってこなかった自分には非常に有り難いものとなる。

 さすがに大都会だけあって、あまり日本と変わらない。旧市街の整備が急ピッチで進んでいるとかで、昔の上海を見ることはもう出来ない状況。

 夜、食事をしようとして間違って入ったところが中国音楽の生演奏が聴ける店。正直、高いのだけど、そしてそれは旅のはじめには痛い出費だけど、それを払う価値のある素晴らしいものだった。

■1996年6月 蘇州 【上海→蘇州(電車)】

 鑑真号に乗り合わせた荷物の少ないYと旅することになる。上海からさほど遠くないところだけに、物価が高い。電車で一緒になった無愛想なおばさんが実はとても良い人で、親身になって宿探しを手伝ってくれた。

■1996年6月 南京 【蘇州→南京(電車)】

 南京では安い宿が見つからず、中国人用の宿舎に泊めてもらう。しかし、質の割りに60元と高い。

 北京に行く切符を買おうとするが、窓口が混み過ぎていて買えない。仕方なく、宿の人に手数料を払って買ってきてもらう。結果、南京始発の2等寝台の切符を取る。

■1996年6月 北京 【南京→北京(2等寝台)】

 寝台車は快適で、問題なく北京に到着。早速地図を買い、バックパッカーの間で有名な「京華飯店」を探す。地下鉄で和平門駅へ、そこから14番のバスに乗ってホテルに着。宿代はドミトリーで28元(450円くらい)。

 ホテルの敷地内にあるレストランが安くて旨く、また、ビールも1本1.8元(30円くらい)とミネラルウォーターよりも安い。すっかり気に入る。

 モンゴルから戻ってきたばかりの旅行者の話を聞く。本当に楽しそうだ。ビサの取り方、電車の値段、向こうでの宿の情報などを収集する。いま行けば、ナーダムというモンゴルの夏祭りも見れるらしい。

 そんな話を聞いていると、血が騒いできたのでモンゴル行きを決定する。

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<モンゴル編>

■1996年7月 ウランバートル 【北京→ウランバートル(寝台車)】

 電車に乗ること30時間。途中、中国製カップ麺など食べながら、乗り合わせた人々とトランプなどしながら時間をつぶす。

 中国−モンゴル国境では、なんと電車の車輌を履き替える。線路の幅が違うため。やはり有事の際に攻め込めないようにする配慮か? ともかく、乗客は降ろされ、車輌は工場のようなところに入れられ、持ち上げられて文字通り車輌を履き替えた。

 悠久の大地を期待してウランバートルの駅に降り立つと、スピーカーから割れた音で聞こえてくるのはスキャットマン・ジョンの「ピ〜、パッパッパラッパ〜」という曲。ふと足元を見ると子供がどぎついポルノの新聞を売っている。現実はこんなもんか。

 事前に聞いていたガーナさんという人に出会える。町の西側にあるチベット寺院の近くにゲル(モンゴル式テント)を張り、そこをゲストハウスにしている。手作りの水シャワーもあり、それなりに生活はできる。

 中国と日本の時差はマイナス2時間。さらに西にあるウランバートルでは時差は遡るはず。しかし、なぜか時計の針は反対に動き、日本との時差がない状態になる。結果、夜11時頃まで明るい。

 食べ物はそれなりにあるが、野菜が少ない。「ホーショール」というモンゴルの揚げパンをしょっちゅう食べる。あと、中国製カップ麺も。

 市場に中国製品が多い。でも、あるモンゴル人に言わせると、「中国のものには毒が入っているんです。食べちゃいけません」とのこと。もちろん冗談だが、中国製品にあまりいい印象はない様子。

 ある日、同じゲストハウスに泊まっていた日本人が自慢げに日本製のカップ麺(シーフード味)を持って来る。「おお〜!」と思っていると、賞味期限は半年前に切れていた。なるほど、賞味期限切れのものはこんなところに流れてくるのか、と変に感心する。

 世界一明るい闇両替があって驚いた。中国元、ロシア・ルーブル、USドルのほか、日本円も飛び交う。しかも、国立銀行の前でやっている。

 ある日、車がびゅんびゅん走っている道路の真ん中に人が倒れている!周囲の人たちと慌てて助けたら、ただの酔っ払いだった。。。

 ナーダムという夏祭りを見る。競馬、モンゴル相撲、弓が主な競技。

 競馬では、地平線の向こうから子供が馬に乗って駆けてくる。力尽きた馬がゴール前で倒れこむと、子供が馬に蹴りを入れる。「何をする?」と思わず思うが、実はそれが心臓マッサージの代わりだったとのこと。

 モンゴル相撲は熱戦だった。決勝戦は何と4時間半もかかる。押し出しのルールがないので、どちらかが倒れるまで勝負は続く。翌朝出会ったモンゴル人に、相撲の決勝戦を全部見たと言うと、そんな気の長いことは普通しない、モンゴル人はテレビで見る、と呆れ顔をされる。

 ガーナさんの奥さんの実家に連れて行ってもらう。実家と言っても草原の中にあるテント。ウランバートルから1時間半ほど走ったところ。寝心地は悪くなく、食事も(自分には)普通。ホーショールや餃子のようなものが出る。おそらく貴重な食料を供出してくれているに違いない。感謝。

 地平線をよく見ると、彼方に鉄道らしきものと、駅らしきもの(ただのコンクリートの台)がある。帰りはそこから電車に乗って帰ることとなった。

 駅の向こうには小さな町があるが、人気が少なく、店もあまりない。なんだかゴーストタウンみたい。みんな遊牧に出ているからか??

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<中国編 その2>

■1996年7月 北京 【ウランバートル→北京(寝台列車)】

 再び30時間かけて北京に戻る。宿はやはり京華飯店、と思ったらいっぱいだったので近くの海星飯店に泊まる。野菜の少ないモンゴルにいたせいか、野菜炒めが妙にうまい。やはり、中国の食事は素晴らしいと実感する。

■1996年7月 瀋陽 【北京→瀋陽(寝台列車)】

 今度は旧満州の東北部に向かう。

 駅前で子供の物乞いに会う。無視して通り過ぎようとすると、後ろから突っ込んできて、ひざの辺りに抱きつかれる。その必死な様子に怖くなって思わず手に持っていた林檎の袋をあげると離れてくれた。

 こんなに切羽詰った感じの乞食は初めてだったので、本当に怖くなった。相手は小さな子供だったにもかかわらず。。。町中にはハングルの看板も多く、朝鮮系の人たちが多いのが感じられた。

 (この後、2002年5月に瀋陽の日本領事館に北朝鮮の親子が駆け込んだというニュースを聞いた時、脳裏に浮かんだのはこの町の乞食の子供たちだった。あの子たちも北朝鮮から来てたのだろうか。)

 瀋陽からバスで撫順に向かう。母方の一族がかつて住んでいたところで、どんなところか見てみたかった。町の中心部に着くが、宿が高い。そこで駅前で客引きをしていたおばさんと交渉。覚えたばかりの中国語で、「私は日本人です。一人部屋はありませんか?」と聞いて見る。するとおばさんたちがヒソヒソ話をした後、ついて来いと言う。行き先は駅の裏手の中国人用の宿。そこの用務員室に泊めてもらう。

 翌日、日本軍による虐殺が行なわれた平頂山、ラストエンペラーが収容されていた収容所、炭鉱の大穴などを見る。

 夕方、バスで瀋陽に戻り、北京からの電車で知り合った遼寧大学に留学中の日本人学生のドミトリーに泊めてもらう。

■1996年7月 北京 【瀋陽→北京(寝台バス)】

 北京への帰路は切符が取れなかったため、バスを利用。寝台バスとは言うけれど、言わば、バス内に2段ベットが並べてあるような状態。自分は2階部分に当たってしまい、座ろうとすると天井に頭をぶつけるので寝ているしかない。これはこれで辛い。

 途中、トイレ兼食事の休憩が入る。そこで見たトイレは悪名高い中国のトイレの中でも極め付けだった。

 1.5メートル四方くらいの狭いスペースに3つの穴が開いている。で、そのうち2つが大のほうで、既にしゃがみ込んでいる人がいる。残るひとつが小のほうで、みんなで輪になって穴を狙って用を足している。当然、3つの穴の間にはさえぎるものは何もなく、丸見えの状態。さすがにこれに参加するのは腰が引けたので、他の人がいなくなるのを待って、こっそりと用事を済ます。

■1996年8月 洛陽 【北京→洛陽(電車)】

 洛陽行きの切符を買いに北京西駅へ。大きくて、きれいな駅。切符もすんなり買える。かつては行列してそれでも買えないこともあったらしいけど、少なくとも北京ではそんなことはない様子。

 旅の途中、出来るだけいろんな乗り物にチャレンジすることにしている。

 で、今回は最も安い硬座を利用。

 4人掛けの席に6人座ったところで出発。そのうち廊下に立つ人、座る人が出始める。それはまだいい。

 それでもさらに込んで来たとき、荷物棚の上で寝る人が出始める。さらに経った時、自分の足に何か当たる。「あれ?」と思って足元を見ると、椅子の下には人が寝そべっている。首を動かすと頭の後ろに何か当たる。振り向くと、座席の背もたれの上に立ち、荷物棚に弁当を置き、ゆれる車内でそのまま食べてる。

 ここまで来るとある意味、曲芸の世界のような気もする。

■1996年8月 西安 【洛陽→西安(バス)】

 いよいよシルクロードの入口、西安へ。

 ここでのバスは普通のバス。快適に体を西安に運んでくれる。

■1996年8月 西寧 【西安→西寧(寝台列車)】

 西安からの道中、切り立った崖の上を電車が行く。

 その下を川が流れ、なんとも雄大な景色が広がる。さすが大陸!と言いたくなる光景。

 この電車の中ではあまり喋りたい気分でなかったので静かにしていたが、到着間際になって同乗していたスウェーデン人に見つかる。彼は何としても漢字の分かる東洋人に付いてきて欲しかったようだけど、正直、全面的に頼られるのはこちらも迷惑なので、この町にしばらく滞在してやり過ごそうと考えていた。が、結局ラサまで一緒に行くことに。

 西寧はチベット、ウイグル、モンゴルの混ざる町。ここからチベットの入り口のゴルムドまでは列車で一日。駅で切符を買おうとすると、「外賓(外国人)用窓口」と「漢字」で書いてあった。一緒にいた英語しか分からないスウェーデン人は途方にくれていた。東洋人にすがりたくなる気持ちがちょっと分かる。

 ここで「八宝茶」なるものを飲み、ハマる。お茶のほかにドライフルーツ、薬草や氷砂糖を入れて飲む。美味い。

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<中国(チベット)編 その3>

■1996年8月 ゴルムド 【西寧→ゴルムド(寝台列車)】

 ゴルムドはチベットへの入口の町で、ここは通過しただけ。ここからバスに乗ってラサを目指す。一緒にいたスウェーデン人が道中寒いはずだからセーターを買え、とうるさい。自分はバスの中ではシュラフにくるまるのでいいと言うが、「後悔するぞ」と脅される。

■1996年8月 ラサ 【ゴルムド→ラサ(バス)】

 結果、シュラフが正解。セーターなどを着込んでいた人は、バスの隙間風に当たって寒い思いをしたとのこと。こちらはそれほど寒くもなく、ぐっすり寝て起きたら、もうそこはラサだった。乗車時間は約24時間。ただし、かなりバスによって時間のムラがあるらしい。

 ラサって言えば、正直なところ、もう少し秘境っぽいイメージでいたので、あまりの普通さにがっかりする。

 ラサには物乞いが多い。私財の全てをなげうって巡礼に来たためという。ここの人たちにとって、信仰とはそんなに重いものなのかと、同じ仏教徒といってもいろいろだと実感。信仰心の弱い自分は人間として不幸なのかも、とすら思う。

■1996年8月 シガツェ 【ラサ→シガツェ(バス)】

 自分の思い描いていたチベットのイメージと最も近い町。町中の丘の上にあるシガツェ城の風情がとても気に入る。

 チベット6大本山のひとつ、タシルンポ寺がここにある。ダライ・ラマ1世であるパンチェン・ゲドゥン・トゥプパによって、1447年に建てられたという。中に入って見物する際、間違って右手の方向、つまり左肩が寺院の中心を向く形で回ってしまう。途中、自分だけが逆行していることに気づいて申し訳ない思いをする。

 タシルンポ寺のはずれには大きなコンクリートの壁がある。その向こうは鳥葬場だそうで、普通の人は見ることができない。

■1996年8月 サキャ 【シガツェ→サキャ(バス)】

 ここにもチベット6大本山のひとつ、サキャ寺がある。サキャ派はチベット4大宗派のひとつ。

 ここで体調がおかしくなり、震えが止まらなくなる。「高山病か?」と恐怖がよぎるが、一晩寝れば回復。

 サキャの町は本当に貧しい感じで、食堂で食事をしていると、入口に子供の物乞いが集まってくる。こういう場合、どのように対応するべきか、いつも悩んでしまう。

 ネパールに向かう道で、公共の交通機関はここで途絶える。ここから先はヒッチハイク(ただし有料)で行くしかない。

■1996年8月 ティンリー 【サキャ→ラツェ(バス)+ラツェ→ティンリー(ヒッチハイク)】

 町外れでトラックに拾ってもらい、荷台に乗って行く。途中のラツェで別の日本人4人組と出会う。普通は日本人同士で群れるのはちょっと、、、と思うときもあるが、ここから先は普通の道に非ず。仲間は多いほうが心強い。

 ティンリーを目指す。ここは中国側からエベレストが見える場所。が、雲で見れず。

 ヒッチハイクでネパール国境に向かいたいのだが、車がなかなか来ない。なんと、その場にいた日本人Tさんは公安の車と交渉開始!

 ヒッチ自体が違法かもしれないのにとハラハラしていると、乗車OK。乗ってみると、若い政府高官らしき人物がきれいな女性を連れていた。誰かが「頼みごとはカップルにしろ。いい格好したがる男が親切にしてくれるばすだ」と言っていたのが正しかったと改めて思う。

■1996年8月 ジャンムー 【ティンリー→ジャンムー(ヒッチハイク)】

 ネパール国境が近づくと高度が一気に下がる。特にニャラムを過ぎたあたりからは急降下のよう。

 途中、断崖のようなところを、おそるおそる通る。しかし、まわりの景色は雄大でかっこいい!

 崩れかかった場所を通るとき、運転手がまず見て、普通なら客を歩いて渡らせてからゆっくり車を通過させると思うのだが、この運転手は危険箇所を通る前に全員を再び乗車させる。命の感覚が違うのだろうか。

 日が暮れた直後、国境の町、ジャンムー(ダム)に到着。

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その2その3に続く


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